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こんにちは、TKです。
金原ひとみさんの文章を読むと、いつも「どうにもならない生きづらさ」というテーマというかメッセージを感じます。
『踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君』の読後に残るのは単純な理解や納得ではなく、虚しさからくる共感のような感覚です。
だけど、そういう感覚がどこか心地よくて、金原さんの文章を追い求めている自分がいます。
この記事では、その感覚を大事にしつつ書評していきます。
分かりやすく楽しめる本ではない
金原ひとみさんは常に「浮いている感覚」を持ちながら生きている人だと思っています。
その感覚を全くオブラートに包まずエッセイや短編フィクションに落とし込んでいるのが今回ご紹介している『踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君』です。
ゆえに、過激であったり倫理的に怪しい表現が当たり前のように散りばめられており、万人に受ける内容ではないでしょう。
実際にAmazonのレビューを見てみると、なかなかの低評価がつけられています。
読めば読むほど金原さんの孤独を感じるのですが、僕はその度に「孤独なことを正直にぶちまけてくれてありがとう」という気持ちになります。
タイトルは子供時代と大人時代を表している
本書のタイトルには「踊り場に立ち尽くす君」と「日比谷で陽に焼かれる君」という2人の人物が含まれているように見えますよね。実はこの2人は、どちらも金原さんを表したものなんです。
「踊り場に立ち尽くす君」は、どうにもならない生きづらさを抱いた子供時代の金原さん。
「日比谷で陽に焼かれる君」は、日比谷という地で人生の酸いも甘いも経験した大人時代の金原さん。
過去の自分を「君」と表現することで、どこか他人事としながらも確実にそういう自分がいたことを噛み締めているような想いを僕は感じました。
また、このタイトルは対比に見せて結局どっちも辛いんだということを表現しているのだと思います。
「踊り場で立ち尽くしている君」は内向きで停滞しており、前に進めない苦しさを感じさせます。
「日比谷で陽に焼かれる君」は外向きであらゆる事柄に晒されており、消耗していく苦しさを感じさせます。
つまりどちらも苦しい状態ですが、
- 片方は「止まって苦しい」
- 片方は「晒されて苦しい」
この二面性を一気に重ねて描いていると僕は捉えました。
どうしていいかわからず立ち尽くす君も、社会の真ん中で消耗している君も、どちらも同じ「君」。
少し残酷で、でもどこか愛おしさも感じさせてくれる、抱きしめたくなるようなタイトルです。
「宙吊り」の感情に貫かれた本
様々な感情に基づいた文章の羅列が魅力の本書ですが、その感情のどれもが「宙吊り」というイメージです。
フワッとしてとらえどころがなく、どうにもならずに彷徨っているんですよね。
短編「踊り場の君」から、ある一文をご紹介します。
あの時の幼い体の中には、希死念慮というよりももっと漠然とした、消えたいに近い消失願望が渦巻いていた。非常階段にいると、体内のそれがぐわんぐわんと自分を取り巻く濃厚な煙のようなもにになっていき、何度も手すりから下を見下ろした。ここから飛び降りれば全てが消える、そんな思いに支配されながらも、飛び降りることはなかった。ただただ泣き、火照った顔で下を見つめていた。死ななければならない、消失している方が自然、自分はエイリアンなのかもしれない、この世界に自分は生きていられない、生きているだけで害悪になる。私を捉えて離さないそんな数々の思考が薄れたのは、小説に出会ってからだった。
出典:踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君p239
何か具体的なキッカケがあったということではなく、根拠なく自分を害悪と思ってしまう感覚が金原さんにはあるようです。
こんな感情、もうどうにもならないですよね。種類やレベルは全然違うとはいえ、僕自身もどうにもならないことに苦しむ時間はあります。そして、自分以外にもそういう時間を持った人が一生懸命に生きていてくれていることがこの上なく嬉しいです。
過度に寄り添わない美しさ
金原さんは良くも悪くも、ただただ書きたいことをオブラートに包まず正直に、時に下品に表現します。そこには迎合みたいなものはないし、かといって無理に突き放すこともありません。
分かりやすい結論が提示されることもなく、読んでいて頭を悩まされることもしばしばあります。ただ、根底には愛がありますし、明言はしていないですが、金原さんは「世界中の人々が幸せになれば嬉しい」と思っている人だと僕は感じています。
とはいえ、過度に寄り添うことは誰も幸せにしないことを金原さんは嫌というほど理解しています。では以下に、理想と現実の相容れない要素が入り混じった文章を、短編「「母」というペルソナ」から抜粋してご紹介します。
今、母というペルソナに苦しんでいる人に、いつかその仮面は外れて息ができるようになるよと言うことはできない。外したくても状況的にそれができない人も必ずいるからだ。でも魂があえぎをあげている時、あなたが喪失したと感じている自分は実は今もそこにいるんだ。一番近くで見守り寄り添い、きっと隙があれば静かにあなたと同化する。あなたを延々苦しめてきた空虚さ軽薄さ愚かさが、そう簡単に消えるはずはないんだ。それはあなたにとって絶望かもしれないが、希望でもあるはずだ。つきまとう自分の気配を気取って思い出して欲しい。あなたには何に首を絞められるか決める権利があるということを。
出典:踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君p16
苦しみや絶望は簡単には消えない。そう言い切ってくれるほうが、なぜか心が救われるような気がします。
フィクションとリアルのつながり
本書は「短編のエッセイ」と「短編の小説」がごちゃ混ぜになっている不思議な構成になっています。なので、読んでいる途中で「あれ?これはエッセイ?それとも小説?」と混乱する瞬間がありました。
まあ、エッセイの場合は基本的に個人名が伏せられていますし、小説の場合は個人名がガッツリ書かれているのである程度区別は可能なのですが。
では、なぜこのような摩訶不思議な構成としているのか。真の狙いは分かりませんが、僕は「フィクションとリアルのつながり」を表現したかったからじゃないかと推察しています。
小説家には様々なタイプがいますが、金原さんは自身の経験をフィクションの根底に置くタイプです。辛い経験や嬉しい経験を小説で表現することで、なんとか生きてこられた金原さん。ゆえに、金原さんにとってフィクションとリアルの境目は曖昧であり、その曖昧さが本書の構成に表れたのかもしれません。
例えば先ほど、短編「踊り場の君」から消失願望に苦しんでいた子供時代の話を取り上げましたよね。この消失願望が『ミーツ・ザ・ワールド』のストーリーに繋がっているのは間違いありません。
金原さんにとってフィクションもリアルも自分にとっての本当の世界。だから、ごちゃ混ぜにしても金原さんにとっては違和感など無いのかもしれませんね。
この本が刺さる人、刺さらない人
安易な救いや答えは本書には全く載っていない。ゆえに、本書が刺さる人と刺さらない人は明確に区別されるでしょう。
- 刺さる人
•残酷な現実に浸りたい人
•どうにもならない想いを抱えている人
・金原ひとみ作品の性質を理解している人
- 刺さらない人
• エッセイに答えを求める人
• 読後感の良さを重視する人
・分かりやすさを重視する人
刺さらない人にはホント刺さらないと思います。だから、万人に勧めたくはないです。言えるのは、本書が刺さる人とは仲間になれるということです。
金原さんに届く日を目指して
金原ひとみ作品は他にもいくつか読んできましたが、ちゃんとメディアで発信するのは今回が初めてです。
今まで何回も発信しようと思っていましたが、想いをちゃんと言語化する自信がなかったり、単にだらけてしまったりして、結局先延ばしにしてきたような人間です僕は。
じゃあ、なんで今回こんな記事を書いたかというと、本書に以下のような叫びが載っていたからです。
私が悲しいのは、私が恨めしいのは、ダンスと違って、小説が誰かに溶解されていく様子を少しも目の当たりにする事が出来ないからだ。
出典:踊り場に立ち尽くす君と日比谷で陽に焼かれる君p34
いつか僕の発信が、想いが金原さんに届く日を信じて、これからも人生を歩んでいきます。

