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書籍レビュー

スマホ時代の哲学|人は繋がるほど寂しくなる【要約・考察】

当記事は、以下の動画を文字起こしした内容となっております。

こんにちは、TKです。

今回は谷川嘉浩さんの著書『スマホ時代の哲学』の内容をベースとして、現代を生き抜く思考法について考察していきます。

まず僕が本書を読んで感じたのは、読みやすいなぁということですね。哲学系の本は言葉遣いや例が固いことが多くとっつきにくさを感じさせるのですが、本書はそういう感じがありませんでした。所々に自虐ネタを入れたり、例としてエヴァの話を取り上げてくれるので、谷川さんは面白い人なんだろうなぁと読みながら思えましたね。

哲学って興味深いのに表現が固すぎてなかなか世間から受け入れられないので、こういうユーモアを交えた哲学者が増えてくれると嬉しいですね。内容の話をざっくりすると、スマホに関連づけた考察が描かれているイメージですね。僕たちって、つい暇な時間にスマホを触ってしまうじゃないですか。また、スマホで誰とでもすぐにいつでも繋がれるのに、なぜか孤独は解消されないどころか、より孤独を感じることもありますよね。そういうスマホの弊害的な話を踏まえつつ、前向きに生きる思考を手に入れることが、本書の目指すところです。極力難しい表現は避けて解説しますので、ぜひリラックスしてお読みください。ただ、浅い話に終始するつもりもありませんので、しっかり思考を働かせながら読んでいただけると幸いです。

では、本書の内容を読み解きながら一緒に考察していきましょう。

現代人は自己完結しすぎ

冒頭で谷川さんは、オルテガというスペインの哲学者の考えを引用します。どういう考えかと言いますと、「現代人は人の話を聞かずに、言いたいことをただただ喋っている」という考えです。普段の会話でもついつい自分の話になってしまうこと、ありますよね。僕もありますし、そういう傾向にある友人もいます。

そして、特にそういう自分語り的な雰囲気を感じるのが、SNSです。みんな自分の話ばかりをしていますし、他人の意見を受け入れる姿勢が無い人が散見されますよね。特に、レスバトルを繰り広げる人は、いかに自分の主張を通すかということばかりを考えており、相手の主張を受け止める姿勢がありませんよね。つまりここでは、自己完結している人を取り上げて批判しようとしているわけです。そして谷川さんは、こういう自己完結している人を非常に面白い表現で例えています。どういう例えかと言いますと、ゾンビ映画ですぐ死ぬやつです。

ゾンビ映画で自信満々のキャラって、まず最初に死にますよね。だから、周りの状況を確認しなかったり、他人の話を蔑ろにしたりすれば、映画の外でも上手くいかないから気をつけようねと、谷川さんは言います。では、どういう姿勢を僕たちは保つべきなのか?それは、不安を抱き続けることです。完璧なものなどない、絶対的なものなどない。そう思うことは、不安を抱き続けることとイコールです。ゆえに、本当に注意深く生きている人は、常に不安というストレスを抱えているものなんです。

この感覚、僕は非常によくわかります。僕は絶対的なものはないし、永続的なものもないと考えている人間なので、あらゆる事象に不安定さというか脆さみたいな感覚を抱いています。ゆえに、生きている間ずっと何かしらの不安を感じているんですよ。これが正しい生き方なのかどうかはわかりませんが、人生が終わるようなトラブルに巻き込まれたことはないので、ひとまずはこの姿勢でいいのかなと思っています。

では、ここまでの話を踏まえて、スマホがもたらしている弊害について考えていきます。なぜ僕たちは深く向き合うことを放棄して、自己完結してしまいがちなのか?それは、スマホから発される高刺激で断片的な情報が大きな要因であると考えられます。今の時代、どんなコンテンツにおいても、テンポや分かりやすさが重視されていますよね。ゆえに、テンポが悪かったり難しいコンテンツは見られなくなってきたように思います。この弊害は僕自身も強く感じていて、小説を読んでいるのについついスマホを手に取ってショート動画を見てしまうことがあるんですよ。とにかく、我慢が効かなくなってきちゃったんですよね。もちろん、サクッと楽しい気持ちになれるコンテンツがあってもいいとは思いますが、難しくて理解に時間がかかるコンテンツもこの世には必要です。

難しく不明瞭な事柄を抱えることの大切さを、小説家の黒井千次さんが語っていますので、確認してみましょう。

「それにしても、とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには、簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は、それを抱く人の体温によって成長、成熟し、さらに豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては、一段と深みを増した謎は、底の浅い答えよりも遥かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない」

謎を謎として内包しておくことの大事さ、僕は日々実感しています。わかった気にならないことは、より深い答えに辿り着くための土台になりますし、たとえ答えが見つからなかったとしても、何事にも粘り強く向き合う姿勢の土台になりますよね。

また、これは好き嫌いの話になりますが、何でもわかったような気になっている人よりも、どんな事もわからない側面があると考えている人の方が何倍も魅力的です。以降の話も、わかった気になりすぎずに、真摯に向き合っていただけると嬉しいです。

自分の頭で考えることに固執しない

ここまで、消化しきれない謎を抱えておくことが大事っぽいというお話を展開してきました。その上で必要になる行為が、考えることですよね。ただただ謎を抱えているだけでは、その謎は単に謎のままとして残るわけです。もちろん、焦って謎を解明する必要はありませんが、時に考え向き合うことは欠かせません。ただ、ここで谷川さんはストップをかけます。自分の頭で考えることに固執しないようにねと。

哲学と聞くと、自分の頭で一生懸命考えることのように思いますよね。もちろん、自分の頭で考えるという行為は哲学を構成する一要素なのは間違いないでしょう。ただ、自分の頭で考えることだけに固執すると良いアウトプットには繋がりません。なぜ良いアウトプットに繋がらないかと言うと、自分の意見をただ再提出しているに過ぎないからです。あなたはこれまでの人生で、いろんなアイディアを考えた経験があると思います。ただ、それが完全に誰とも被らない画期的なものだったという経験は、おそらく無いんではないでしょうか?自力で考えることにはどことなく尊さがありますし、出された答えへの納得感もありますよね。

ゆえに、自力で考えることに傾倒しちゃう事もあるのですが、そこをなんとか踏ん張って、多様な思考を自分の中に持たせる事、つまりは他者の思考を多数自分の中に住まわせる事が、哲学を極めていく過程には欠かせないのです。

ただ、他者の思考を自分の中に住まわせるする上で、注意すべきことがあります。それは、自分の理解の範疇に無理やり落とし込まないことです。先ほどの話と繋がってくるのですが、やはり分からなさというストレスを抱える必要があるんですね。他人の概念や感性を理解することは、当たり前ですが容易ではありません。僕自身、いろんな本を読んできましたが、理解できない表現にいつもぶち当たっています。こういう時に重要となるのは、一旦その人のノリを受け入れるという姿勢なんですよ。

例えば、世の中にはヴィーガンと呼ばれる人がいるじゃないですか。僕はヴィーガンじゃないので、ヴィーガンから見える景色は全くわからないわけです。ただ、ヴィーガンを否定したり自分の持ち合わせの知識で理解しようとすれば、ヴィーガンの持つ思考を借りることは一生できないでしょう。したがって、ヴィーガンの意見をまずはただただ受け入れてみる。そういう姿勢が自分の中に他者を住まわせることに繋がり、ひいては豊かな想像力が形成されていくわけです。

他者の思考をインストールする際に注意すべきことは様々ありますが、ここで強調しておくのは、その人がどういうイメージで言葉を使っているかに注意深くなることです。どういうことかと言いますと、例えば、想像力という言葉がありますよね。こういう言葉ひとつとっても、人によって捉え方が違います。想像力のことを自分の頭で考える力的に捉える人もいれば、あらゆる人の思考をベースとして理論を組み立てることと解釈する人もいます。ちなみに谷川さんは、後者の意味で想像力という言葉を用いています。

若い女の子がよく「かわいい」という言葉を使いますが、僕がいまだにこの感覚をうまく理解できていません。ただ、徐々に理解が深まっていけば、彼女達の感覚をインストールできるような気がします。このようにですね、言葉に付与された感覚を勝手に解釈しない注意深さは持っておいてください。

スマホが奪った孤独

ではここから、本書のタイトルにもある「スマホ」の存在について考えていきましょう。スマホの登場によって、僕たちは常に世界と常時接続できるようになりました。ただ、そのスマホの登場によって、もたらされた弊害があるのも事実です。具体的に言えば、ゆっくりとした向き合い方が軽視されるようになったことが挙げられます。スマホは即時に刺激的なコンテンツを提示してくれますし、即時に誰とでも連絡を取ることができます。それ自体は楽しくて便利ではあるものの、これまでに話してきた消化しきれない謎のような向き合うことに時間がかかる事柄が軽視されるようになりましたよね。

ゆっくりと小説を読んだり、モヤモヤと静かに向き合ったりと、時間をかけることが必要な事柄などいくらでもあります。にも関わらず、僕たちは時間を要することを排除する傾向にあるわけです。で、そうなるとどういう悪いことが起きるかと言いますと、孤立を失ってしまうんですよ。ハンナ・アーレントという哲学者は、「1人であること」を3つの種類に分けて説明しています。その3つとは、孤立、孤独、寂しさです。

孤立とは、物理的に1人っきりである状態を意味しています。1人でいる状態そのものであり、精神的な意味合いは含まれていないと思ってもらってOKです。孤独とは「沈黙の内に自らと向き合う姿勢」のことを意味しています。ちょっと難しい言い回しですが、ここで感じてほしいのが、ここで言う孤独は決してネガティブな意味合いではないということです。静かに自己と対話し、モヤモヤした想いを少しずつ解消していく過程。というイメージですね。つまり、孤立した状態を確立して初めて、僕たちは孤独を味わえるというわけです。そして、寂しさとは、他人と一緒にいる時に感じるネガティブな感情のことを意味しています。1人っきりで自己と向き合うことが辛くて、つい他者からの刺激を求めてしまう行動から、寂しさが生じるというイメージです。もちろん、物理的に他者と向き合う時間も重要ではありますよ。ただ、スマホの登場によって孤立した時間があまりにも少なくなってきたことに本書は警鐘を鳴らしているということです。

孤立した状態に耐えられなくて、ついSNSを見たり友人にLINEをしまくったりしても、ふと我に返ったときに寂しさが増した経験はあなたにもあると思います。当然、僕にもあります。つまりスマホは、寂しさを加速させる装置だと言っても過言ではありません。以上を踏まえ、大切になってくるのは、ちゃんと傷つくための孤立を確保することです。

例えば、大切な人との別れを思い出してください。その瞬間はとても悲しくて、やりきれない気持ちでいっぱいになったことでしょう。ただ、その悲しさと1人で向き合いたくなくて、その時の気持ちをSNSに投稿したり、電話で誰かに長々と話している自分を想像してみてください。なんか、正しくない気がしませんか?心の傷というのは、発信すれば解消できるほど単純なものじゃないと思うんですよね。孤独になってちゃんと傷と向き合うことで、心の折り合いがつき、なんとか前向きにみ出していけるような気がしてなりません。

本書で谷川さんは次のような言葉を残しているのですが、それが僕にはとても印象的に映りました。

「交通事故の現場で近くにいる人たの多くがスマホを向けたり、フリック入力していたりすることがあります。警察などに電話し、自分に危険が及ばない範囲で怪我人を助け出そうとすることは当然として、それ以外に私たちにできることがあるとすれば、ただどうしようもなく驚き、取り乱すことではないでしょうか」

自分の中に湧き上がった感情をちゃんと受け止め、その上で冷静な言動を心がける。何度も言いますが、そのためには、孤立が欠かせないのです。ここまではネガティブな感情が発生した際の話に終始してきましたが、嬉しい感情が湧き上がった時も同様に孤立する時間は必要です。日常にあった嬉しい出来事をなんでもSNSにアップする人がいますけど、その行動に違和感を覚える人は少なくないはずです。やはりこういった違和感から考察できることは、自己と向き合わないのは良くないことだと、誰しもが本能で理解しているんだなということです。

では、自己と向き合うためにはどうすればいいか?その方法として僕が勧めたいのは、ゆっくりと1つの作業に時間を費やすことです。コーヒーを飲む、掃除する、料理をする、お風呂に浸かる。こんな感じで、なんでもいいです。とにかく、隙間時間をスマホで埋めることのない環境を用意してみてください。なお、作業内容は無意識のレベルでやれることにとどめてくださいね。そうしないと、自己と向き合えなくなり本末転倒ですから。

孤独を深めるために

常時接続が可能となった現代で、深刻さを増している問題があります。それは、FOMOです。FOMOとはFera Of Missing outの頭文字をとった造語でして、意味としては「取り残されることへの恐怖」となります。このFOMOが顕著に現れているのが、倍速視聴ではないかと僕は感じています。話題に取り残されるのが怖いので、倍速視聴にてあらゆるコンテンツを消費していく若者が増えている感覚があります。しかし、それによって形成されるのは浅い繋がりではないでしょうか。

どんなアニメや映画も、内容を理解し、その内容から感じ取ったものを自分の中で噛み砕いていくことが、心地よさや成長として自己への貢献を果たすはずです。にも関わらず、コンテンツを情報収集的に取り入れているだけなので、いざそのコンテンツの話をする時も、表面的で浅い話にしかなり得ないケースが多くなります。結果的に、誰とも深く繋がれずにより寂しさが増すという悪循環が生まれている気がしてなりません。

谷川さんはそんなFOMOに振りまわされない人の例として、エヴァの加持リョウジを取り上げています。このように、アニメのキャラを時折織り交ぜてくれるのが、本書の魅力です。では、加持がどのような言動を残しているのか確認してみましょう。加持は世界の終わりが近づいている雰囲気のなkで、次のようなセリフを残しています。

シンジ:「スイカ、ですか?」

加持:「ああ、可愛いだろ?俺の趣味さ。みんなには内緒だけどな。何かを作る、何かを育てるのはいいぞ。いろんなことが見えるし、わかってくる。楽しいこととかな」

加持はスイカを、単なる趣味として取り組んでいます。そこには、他者からの評価もなければ、時間に追われる焦りもありません。話題や出来事に居合わせなければというストレスから完全に逃れている取り組みを、谷川さんは真の趣味と捉えており、孤独を形成する要素になり得ると言います。特に谷川さんは、何かを作るという視点に重きを置いていますので、その点に着目しながら話を進めていきますね。

FOMOから離れ黙々と何かを作っている時、その作っている対象は「他者」のような性質を持ちます。例えばスイカであれば、育て方によって様々な育ち方を見せてくるでしょう。そうやって千差万別の育ち方をしたものは、何かこちらに問いかけてくるような力を感じるものだと谷川さんは言います。やや感覚的な話になってきましたが、これはなんとなく分かるなあと僕は思います。

僕自身、エッセイを書くことがあるのですが、そのエッセイを書いている過程で、自分が何を大事にしているのか、どんな表現を好んでいるのかといった心の機微が少しずつ浮き彫りになってくる感覚があってですね、まさにそれはエッセイとの対話のようなイメージなんですよ。そして強調しておきたいのが、何かを作ってみる趣味の優位性がこの話の中にあるということです。

僕たちは作られた物事を介して、対話を持つことができます。その対話を通じることで、より深く心の機微を浮き彫りにすることができ、ひいては豊かな想像力の養成に繋がっていくわけですね。ここで質問なのですが、過去に作った物や過去に書いた文章って、自分が産みの親であるにも関わらず、どこか他者性を感じませんか?なんで自分で作ったものなのに、2度と同じものは作れないように思うんでしょうかね?だから僕たちは、作れる時に作っておくべきなんだと思います。いずれそれは作れなくなりますし、作ったものは未来の自分へのメッセージになりますからね。

多忙に溺れる現代人

次に、快楽という感情を取り上げて、現代を穏やかに生き抜いていくための思考法について考えていきます。快楽は、明らかにポジティブな感情ですよね。ゆえに、追求することに悪い点があるようには一見思えません。しかし、快楽を追い求めすぎるがゆえに、滑稽な生き方を僕たちはしてしまっている側面もあるんですね。そういったちょっと目を逸らしたい話に向き合ってもらいますので、嫌気がさす瞬間もあるかもしれませんが、未来の糧になると信じて付き合っていただければ幸いです。

数学者としても有名なフランス哲学者ブレーズ・パスカルは次のような言葉を残しています。

「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ」

僕たちは生きるためではなく、退屈を解消するために外に出たり、せっかく稼いだお金を賭け事に使ったりします。このようにですね、じっと家で我慢できない人々をどこかパスカルは冷笑的にみている節があってですね、現代で言えば引きこもりのネット民みたいな感じでしょうか。

パスカルの考えは素直に受け取りにくいものではありますが、時折思い出して、自分を戒めることは必要です。また、僕たちは無理矢理にでもテンションを上げて、何かに取り組もうとした結果として、ふとした瞬間に虚しくなり、うつ病になってしまうこともあります。その代表例が、就職活動です。きっと自分に適した仕事がある。きっとやりがいを見出せる仕事がある。そうやって無理矢理士気を高めて就職活動に臨みますが、その考えは本当に合っているのでしょうか?

大抵の仕事は効率化されている、つまりは極力分業化されているのが普通なので、そこにやりがいが無いのが普通だと思うんですよね。したがって、仕事がつまらなくて気分が落ち込んだとしても、それはあなたのせいというか、社会のせいと言えるはずです。にも関わらず、メンタル系の責任は基本的に、自己責任として扱われます。

僕は気分が落ち込んでいる人に対して、健康になる方法を純粋な気持ちでアドバイスしたことがありますが、それは間違いだったと今は思います。自己啓発的な取り組みが意味を成す側面も大いにありますが、それ以上に社会が僕たちに与えている影響を鑑みて、寄り添ってあげればよかったです・・・。

少し個人的な話になってしまいましたが、要するにここで言いたいのは、多忙やハイテンションに身を投じることからは生の実感が得られるものだけど、それは続かないし危険だから、落ち着いた時間を持とうねということです。つまり、これまでに話してきた内容を別の側面から言い換えているといってもいいでしょう。また、自己啓発的な考えに傾倒しすぎると、先ほど書いた「他者を住まわせること」が実現しにくくなります。

自分の心にしたがって生きろ的な発言をする著名人がたくさんいますが、それはあまり良いアドバイスとは言えません。なぜなら、自分の心が絶対的な正解を持っている根拠など無いからです。自己啓発的な本を読んでいると、まるで僕たちの心は一枚岩のような印象を受けます。ただ、そんなわけないですよね。心は非常に移り変わりやすいものですし、時にネガティブな感情で満たされることもあります。

だから僕たちは、他者の思考を取り入れ、ゆっくりと対話を重ねていく中で、正解に近いものを探り当てる冒険が必要なのです。スマホの登場によって、多忙やハイテンションが当たり前となってしまった現代において、ゆっくり他者の心を住まわせていくことは容易ではありませんが、心穏やかに生きていくためにも、対話は欠かせないということを再度ご認識して頂ければ幸いです。

まとめ

はい、今回は以上となります。

僕たちはスマホによって孤独が失われ、自己と向き合う時間が減ってしまっていることについて解説してきました。そして、孤独を取り戻す手段の一つとして、何かを淡々と作る趣味を持つという提案についても解説しました。

そして、今回の話を通じて覚えておいてほしいのが、謎に安易な答えをつけないことです。

人生生きていれば、よく分からないことにいくらでもぶち当たります。よく分からない事柄を放置するのは気持ち悪いのですが、安易に答えをつけてしまえば、何事に対しても浅い理解しか得られず、結果的に空虚な人生を送るような羽目になる気がしてなりません。ぜひ謎を謎として大事にして、自己と向き合う孤独な時間を作ってみてください。