当記事は、以下の動画を文字起こしした内容となっております。
僕たちが日々使っている言葉。
それは便利で、世界を理解するためのツールです。
でも、その言葉が――ときに、僕たちの視野を狭めてしまうことがある。
見えるものに名前をつけることで、
本当は“見えていない”ものを、見落としてしまっているのかもしれません。
そんな現代に、2500年以上も前に、
老子という思想家がこんな言葉を遺しています。
「道の道とすべきは、常の道にあらず」
この言葉は、いま僕たちが生きる混沌とした社会に、
静かな、けれど決定的な問いを投げかけてきます。
今回の動画では、老子の『道徳経』を題材に、
“言葉にならないものの価値”を一緒に深く見つめていきたいと思います。
第1章:言葉が届かない場所に、真実はある
僕たちは、日々の暮らしの中で、あらゆるものに「名前」をつけながら世界を理解しています。たとえば「成功」とか「幸福」、あるいは「正しさ」や「意味」といった言葉たち。それらはまるで、僕たちの心のコンパスのようなものです。でも、老子はこう言います。「道の道とすべきは、常の道にあらず」。これはつまり、「本当の道は、道だと名づけた瞬間にもう、それではなくなってしまう」という意味です。
言葉にした瞬間、真実はもうそこにはない。名づけるという行為そのものが、すでに“本質からのズレ”を生んでいる。老子が言う「道(タオ)」とは、宇宙の根本原理であり、万物を生み出す根源の力です。でも、それを「道」と呼ぶことによって、すでにそれは限定され、僕たちの理解の枠に押し込められてしまうのです。
この老子の有名な一節は、次のように続きます。
「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常に名にあらず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母なり。故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄の又た玄は衆妙の門なり。」
ここで言う「名無き」とは、何も名づけられていない純粋な状態。混沌、無形、無限。宇宙が始まる前のような、まだ何ものでもない存在です。それは天地の始まり、すべての起源。そこから、「名有る」、つまり名前を持つ存在が生まれます。名づけられることで、ものは形を持ち、区別され、個として認識されるようになります。そうして、この世にあるすべての現象――つまり万物が生まれるのです。
でも老子は、名づけられる前の「名無き」状態にこそ、本質があると言います。そして、どうすればその本質に触れることができるのか。その鍵は、「無欲」にあると説きます。
「常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る」
つまり、心に欲がないとき、人は“妙”――すなわち神秘、本質を観ることができる。逆に、欲を持つと、“徼”――すなわち目に見える表面的な現象しか見ることができない、ということです。
ここでの「欲」とは、単に物欲や金銭欲のことではありません。「こうありたい」「こうであるはずだ」といった執着や期待も含まれます。僕たちは、何かを求めすぎると、ありのままを見る目を失ってしまいます。先入観や願望が、現実をねじ曲げてしまうのです。
無欲であること。それはつまり、心を空にすることです。判断も執着も手放して、目の前のものをそのままに観る。そのとき、人は初めて「妙」、すなわち言葉にはならない深い本質に触れることができます。
そして老子は、無欲によって観る「妙」と、有欲によって観る「徼」は、実はどちらも同じ源から生まれていると語ります。「此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす」とは、まさにそのことを指しています。異なるように見える二つの世界――本質と現象、無と有、混沌と秩序。それらは、もともと一つのものから生まれたのだと。
この一なるものを、老子は「玄」と呼びます。さらにその奥にあるもの――言葉も思考も届かない深淵を「玄のまた玄」と呼び、それを「衆妙の門」、すべての神秘が始まる門口だと言うのです。
この一節には、僕たちが生きるうえでの大きなヒントが含まれています。僕たちは、つい言葉で物事を定義し、理解した気になってしまいます。でも、名前をつけた時点で、その本質からは少し離れてしまう。だからこそ、言葉にできないものを感じ取るための「空(くう)」を、心のどこかに持っておくことが大切なのだと思います。
そして何よりも、無欲のまなざし――何も期待せず、何も定義せず、ただ「在るがまま」を見る力こそが、世界の奥にある“妙”とつながる唯一の道なのです。
第2章:本質を貫く「玄」の意味
僕がこの老子の教えで特に心を引かれるのは、「玄(げん)」という言葉の深い意味です。第1章でも触れましたが、「玄」とは一見すると単なる「謎」や「深遠さ」以上のものを指しています。老子が言う「玄のまた玄は衆妙の門なり」という表現は、世界の本質は一見して理解できないほど深遠であり、その深みこそがすべての神秘や不思議を生み出す入口であることを示しています。
僕たちは、普段の生活で物事を分かりやすく理解しようとします。理由を探り、原因を分析し、言葉で説明して安心したいのです。でも、老子はこうした「わかる」という行為自体を超えたところに、もっと根源的な「真理」があると教えてくれています。
この「玄」とは、言葉にできないもの、形として掴めないもの、しかし確かに存在している何か。宇宙の根本原理、生命の奥底に流れる流れ、万物の統一体とも言えるものです。老子はこの「玄」を、僕たちの理解を超えた「無限の深み」として捉えています。
このことは、科学や哲学がいくら進歩しても最後には行き着けない場所とも言えるでしょう。物理学で例えれば、素粒子や量子の世界に迫るほどに、実態は曖昧で捉えどころがなくなっていきます。まさに「玄」の世界です。つまり、僕たちは「わかった」と思っても、その奥にはいつも新たな深みが広がっている。老子はそれを「衆妙の門」と呼び、すべての不思議や美しさはそこから始まると説いています。
さらに、老子は「無」と「有」の両面を強調しています。無欲の状態、つまり「無」が本質の深みを観るための視点であり、一方で「有欲」、つまり形あるものを求める心が現象や具体的な姿を観るための視点です。この両者は相反するように見えますが、実は不可分のものです。無がなければ有は存在せず、有がなければ無もまた意味をなさない。
このことは、陰陽の思想にも通じています。陰と陽が相互に補完し合い、一つの調和した全体を作り出すように、無と有も互いに支え合い、宇宙の調和を生み出しています。
僕たちは普段、「明確な答え」や「確かなもの」を求めがちです。しかし老子は、むしろ「確かなもの」から自由になることをすすめています。つまり、固定観念や先入観を手放すことです。そうすることで、僕たちの心は柔軟になり、世界の多様な側面を受け入れられるようになります。
つまり、無理に答えを求めるのをやめ、ただその場にある現実を受け入れ、感じることに集中すると、不思議と心が軽くなり、物事の本質がぼんやりと見えてくるように感じるのです。
結局、老子が伝えたかったのは、「理解できないものを恐れたり否定したりするのではなく、その神秘を受け入れ、そこから新たな気づきを得よ」ということではないでしょうか。
この教えは、僕たちの日常にも深く関わっています。たとえば、他人との関係や人生の選択においても、すべてが明確に「白黒つく」わけではありません。矛盾や不確実性を抱えたまま、それでも前に進む力を持つことが求められています。
だからこそ、「玄」の精神は、僕たちに「不完全さを抱きしめる勇気」を与えてくれます。完璧に理解しきれない世界の中で、謙虚に、しかし迷わずに生きていく知恵です。
この章では、「玄」が持つ意味の深さを通して、僕たちが目に見える世界の背後にある見えない本質とどう向き合うべきかを考えてみました。次の章では、僕自身の視点も交えながら、この教えが現代にどう生きるかを探っていきたいと思います。
第3章:「玄」と人生の関わり
僕は老子のこの教えを通じて、「玄」という言葉が示す世界の深さを、自分の人生とどう結びつけるかを日々考えています。先ほどの章では「玄」が宇宙の根本原理や真理の入口として語られていましたが、僕にとってそれは、人生の不可視の力、見えない流れや調和とつながるキーワードでもあります。
日々の生活を振り返ると、僕たちはたくさんの「わからない」に囲まれています。未来のこと、自分の心の中の曖昧な想い、人間関係の複雑さ、社会の動き…こうしたすべてに「完全な理解」や「絶対的な答え」はありません。にもかかわらず、僕たちはその曖昧さや不確実さに不安を感じたり、どうにか確かなものを求めたりしてしまいます。
ここで僕は「玄」の教えを思い出します。「わからない」を恐れず、「わからない」を受け入れることの大切さです。つまり、人生は本来「わからないもの」とともにあるものであり、それ自体が僕たちの成長や気づきの源泉なのだと考えています。
「無欲にしてその妙を観る」という老子の言葉の意味を、僕はこう解釈しています。欲望や先入観を手放し、心を静かにして、物事の奥に潜む本質や流れに耳を傾けること。そうすることで、世界の見えない調和や深みを感じ取ることができるのです。
逆に「有欲にしてその徼を観る」とあるように、僕たちは形や現象を通じて世界を理解しようとします。これは、日常生活や仕事、社会の中で具体的な結果や目標を追い求める姿勢に通じています。しかし、それだけに囚われると、物事の表層だけを見てしまい、本当の意味での理解からは遠ざかることもあります。
この二つの視点をバランスよく持つことが、僕の人生哲学の一つになりました。形や結果を大事にしながらも、その裏にある「玄」の世界、すなわち言葉や理屈では説明できない真理を感じ取り、そこから学ぶことが大切だと思っています。
また、僕にとって「玄」とは「謙虚さ」の象徴でもあります。何事も完全に把握できるわけではないという認識が、驕りを防ぎ、心を開く助けになるのです。これは、人間関係においても大きな意味を持ちます。相手を完全に理解しようとしすぎるのではなく、その人の中にある未知の部分を尊重し、受け入れる姿勢。これも「玄」の精神から学べることだと思います。
さらに、人生の試練や困難も「玄」の世界の一部として捉えられます。わからないこと、不安や苦しみもまた、僕たちに新しい気づきをもたらし、成長へと導くものです。だからこそ、僕は恐れずにそれらに向き合い、受け入れる心の強さを養うことを心がけています。
僕の経験では、「答えがすぐに見つからないこと」に対する忍耐と静かな観察が、意外なほどに多くの学びと気づきをもたらしてくれました。時には、状況が不明瞭であればあるほど、その奥にある「玄」の世界の扉は広がり、人生の真の豊かさや意味を感じられるようになるのです。
この教えは、現代の僕たちにこそ必要なものだと感じています。情報が溢れ、すべてを即座に理解しようと焦る時代だからこそ、「わからないことを受け入れる」「深みを感じる」ことの価値は大きいのです。
僕はこれからも、この「玄」の教えを心の拠り所にして、人生の不確実さや未知に向き合いながら歩んでいきたいと思います。そして、皆さんにもぜひこの視点を持っていただきたいと願っています。答えが見つからなくても、そこにこそ人生の豊かさと深みがあることを、忘れないでほしいのです。
第4章:「無欲と有欲」の調和と現代社会への問いかけ
僕は老子のこの教えを読み返すたびに、無欲と有欲という相反する概念が、実は深く繋がり合っていることに心を動かされます。現代社会に生きる僕たちは、どうしても「もっと成長したい」「成功したい」「手に入れたい」といった欲望に駆られがちです。一方で、「欲を捨てて心を穏やかに」と説く精神性にも強く惹かれます。この二つの間で揺れ動く心は、まさに老子が語った「無欲にして以てその妙を観、有欲にして以てその徼を観る」という真理の生きた証拠だと感じています。
まず「無欲にして以てその妙を観る」という教えは、単に欲を捨てるということ以上の意味を持つと思います。僕の解釈では、それは心の奥底にある「あるがままの現実を受け入れ、そこに潜む本質や調和を感じ取る力」を指しています。たとえば、何かを無理に求めない時、心が静かに澄み渡り、普段は見過ごしてしまう自然の美しさや人の優しさ、宇宙の大きな流れに気づくことができます。
この状態こそが「妙」、つまり言葉では表せない深遠な真理を感じる瞬間なのです。僕は、これを日常の小さな瞬間の中で味わうことが、人生の豊かさの源泉だと信じています。
一方で「有欲にして以てその徼を観る」とは、欲を持って物事の形や現象に注目し、その世界の制約や法則を理解しようとする姿勢です。僕たちは社会の中で、目標を設定し、計画を立て、努力を積み重ねて成果を追い求めます。それは生きるために不可欠な態度であり、人生を切り開く力でもあります。
ただし、ここに危うさも潜んでいます。有欲ばかりに囚われてしまうと、物事の表層だけを見て、心の奥底にある深みを見失いがちになります。結果として、心の不安や焦り、満たされなさを感じることも多いのです。
僕は、この二つの相反する状態をどう調和させるかが、老子の教えの肝だと思っています。無欲の境地に心を静めつつも、有欲の世界で現実的に動く。どちらかに偏らず、両方を自然に行き来することができれば、僕たちの人生はもっと豊かで奥行きのあるものになるはずです。
現代社会では、このバランスを取ることがとても難しいと感じます。常に情報や刺激にさらされ、目の前の成果や評価を追い求めるあまり、無欲の心を保つ時間が極端に少なくなっているのです。だからこそ、老子の教えは今、再び僕たちに問いかけているのだと思います。
「あなたは今、無欲の妙を観る心を持てていますか?
それとも有欲の徼だけを追いかけていませんか?」
この問いに答えるためには、日常の中で意識的に「無欲の時間」を作り出す必要があるでしょう。瞑想や散歩、静かな読書の時間。そういった「無欲」の瞬間を通じて、僕たちは自分の心の深さと向き合い、真の調和を見つけることができるのです。
そして、有欲の面では、目的を持って動きながらも「その結果に縛られすぎない」「過度な期待や執着を手放す」という心構えが大切です。つまり、流れの中で柔軟に生きるということ。そうすることで、僕たちは欲望に飲み込まれることなく、自分らしく生きる力を養えます。
僕はこの無欲と有欲の調和を、自分の人生のテーマとして大切にしています。どちらか一方に偏るのではなく、両者を理解し、受け入れることが、老子の「玄」の世界に一歩近づく道だと信じているからです。
皆さんにもぜひ、日常の忙しさの中で、静かに自分の心と対話する時間を持ってほしいと思います。無欲の妙を味わい、有欲の徼を見つめる。その両方が人生の真実を形作るのだと、僕は強く感じています。
第5章:老子の教えを日常に活かす〜無欲と有欲のバランスを取る具体的実践法〜
僕たちは普段、どうしても「もっと成果を出したい」「誰かに認められたい」という欲求に支配されがちです。でも老子が教えてくれるのは、欲望を否定することではなく、その「有欲」と「無欲」のバランスをどうとるかです。ここでは、僕が実践して効果を感じている具体的な方法を紹介したいと思います。
まず最初に大切なのは「無欲の時間」を意識的に作ることです。例えば、一日の中で10分でもいいので、スマホやパソコンから離れて静かに座る時間を持つ。呼吸に集中するだけでも構いません。こうした時間を持つことで、心は自然と落ち着き、目の前の現実や物事の「本質」に触れる感覚が芽生えます。これが「無欲にして以て其の妙を観る」ことにつながります。
次に、「有欲」の側面を充実させるために、自分の目標や計画を明確に持つことも大切です。ただし、そこで心が固執したり、結果に過度に執着しないように気をつけなければなりません。僕は日々の行動の中で「結果は結果として受け入れる」というマインドセットを持つようにしています。結果に固執せず、むしろそのプロセス自体を楽しむ姿勢こそが、有欲の中に無欲を溶け込ませる鍵だと感じています。
また、日々の生活の中で「自然との対話」を大切にすることもおすすめです。老子の教えは自然から多くを学んでいます。散歩をしながら風や木々の動きに意識を向けるだけで、心が調和に向かっていきます。無欲の状態に近づくことで、僕たちは「玄」の扉を少しずつ開くことができるのです。
さらに、自分の感情や欲求に対して「観察者の目」を持つことも実践の一つです。欲が湧いた時に、その感情を否定せず「今、僕はこう感じているな」と静かに認識する。これにより欲に振り回されることなく、心の中の動きを客観的に捉えられます。僕はこの方法で、無欲と有欲の間に自然なバランスを築いています。
最後に大切なのは、「継続すること」です。老子の教えは一度で理解できるものではなく、日々の生活の中で何度も繰り返し味わいながら、自分の中で深めていくものです。焦らず、自分のペースで「無欲」と「有欲」を行き来しながら、心と行動の調和を目指してください。
僕自身もまだ道半ばですが、この実践を通じて心の平安と生きる力を少しずつ得ています。皆さんもぜひ、老子の教えを日常の中で試してみてください。そこに、新たな人生の「玄」の扉が開かれているはずです。
まとめ:あなたの中にある「道」は、今、どこに向かっていますか?
今回の老子の教えは、僕たちにこう語りかけているように思います——
「この世界に名前のつかない真理があり、それに触れるには、“無欲”のまなざしが必要だ」と。
僕たちはつい、すべてに意味を求め、結果を追い、目に見えるものだけに価値を感じがちです。でも老子は、その一歩手前に立ち止まって、目に見えないものの存在にも心を開いてみようと促してくれているのかもしれません。
無欲で観ること、有欲で探ること、その両方のバランスが整ったとき、きっと「玄のまた玄」、人生の奥行きと広がりが見えてくるはずです。
あなたは、どんなときに無欲になれますか?
あなたにとって「名前のつかない何か」とは、何でしょうか?
もしよければ、あなた自身の「道」について、コメントで教えていただけたら嬉しいです。
みなさんの言葉の中にも、きっと“妙”が宿っているはずです。