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こんにちは、こんばんは、TKです。
今回解説させていただく本は、與那覇 潤さんの著書「過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか」です。
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本書は、なんでもかんでも見える化することを良しとする社会に対して、見えすぎることにはデメリットもあるよという指摘をしている内容となっております。今の世の中ってなんとなく、企業とか政治家に対して、情報を隠さずにちゃんと見せろと言っている雰囲気がありますよね。たしかに、都合の悪い情報を隠しまくるのは不信感が募るだけですから、ある程度の情報を開示することは必要です。また、具体的なデータを開示することで、正しい視点から議論がされることもありますから、情報やデータは積極的に開示することは良いことのように思えます。
ただ、こんな感じでんでもかんでも見える化するとですね、目に見えるものしか信用できなくなったり、深く考察する姿勢が失われたりするなど、いろんなデメリットもあるんですよ。今回は本書から具体的な事例を取り上げてですね、「過剰可視化社会」と言える現状について考察していこうと思います。
僕たちは視覚に敏感になっている?
まず考えておきたいのは、すでに僕たちは視覚に敏感になりすぎているのでは?という問題ですね。人には視覚以外にも、聴覚、味覚、触覚、嗅覚といった感覚を持っていて、そういった多様な感覚を駆使して物事を判断していますよね。例えば、賞味期限を過ぎていなくても、明らかに食べたらヤバそうな匂いを発している食品があれば、その食品は絶対に食べないはずです。ただ、明らかにヤバい匂いを発しているけど、賞味期限を過ぎていないから食べても大丈夫と考えてしまうのが、現代人の傾向と推測できます。
実は本書にもですね、以下のような記述があります。
コロナ渦で多くの人が経験しただろう、週末のみにいかない?いや、感染者も増えているし、やめておこうかといった会話に、実は大きなヒントが隠されています。コロナ以外の感染症、たとえばインフルエンザのときには、私たちはそうした会話をしなかったはずです。飲み会を開くか否かは、テレビやネットで目にした感染者数のグラフではなく、なによりもまず自分の体調に聞いて、「ばっちりだし行こうぜ」「ちょっと調子が悪いから、インフルもあるしやめておくよ」と返事をしていた。
出典:過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか
はい、実は1998年から1999年にかけて、インフルエンザをきっかけとした国内の死者数は3万5000人とも言われています。単純な数だけで見ればインフルエンザのほうがコロナより脅威を感じますけど、インフルエンザが流行ったときは自粛ムードみたいなものはほとんどありませんでした。こう考えると、明らかに今は政府が発表する数字や言葉に敏感になっていると言えますよね。で、この視覚に敏感になることの何がマズイかと言うと、都合よく操られてしまうんですよ。
例えば今後、また別のウィルスが流行したとしますよね。で、そのウィルスの感染者の数を発表しつつ、これはヤバいウィルスだから自粛しましょうねと言えちゃうわけです。たしかに強制的に自粛することによって、ウィルスによる死者数を減らすことはできるかもしれません。ただ、ウィルスによる死者数を減らせれば、他のことを犠牲にしてもいいとは言えませんよね。当たり前のことですけど、ウィルスによる死者数を減らしつつも、飲食店の経営を支えるといった配慮も必要です。ただ一時期は、酒を提供する店は悪いみたいな風潮があってですね、国の命令に従わない店には酒を提供するなと主張する大臣もいました。これって結構酷いですよね。そもそも酒が感染リスクを高める明確な根拠はないですし、酒の販売で生計を立てている人を粗末に扱いすぎです。
じゃあ、なんでこんな野蛮なことが行われたかというと、僕たちが視覚に敏感になりすぎていて、そこに国が目をつけたからだと考えられます。明確な根拠はないものの、お酒を飲みながら喋っていると、感染リスクが高まりそうな気がしますよね。別に酒を飲まなくても会話はするのですが、そんなことは関係ないです。酒を飲んで大声で喋るという視覚的なイメージが重要です。また、酒ってトラブルの要因になりやすいイメージもありますから、悪者に仕立て上げやすかったのだと思いますね。パチンコ店とかも自粛しろってめちゃくちゃ叩かれましたけど、やっぱどこか後ろめたい業種って、こういう緊急事態のときに悪者にされてかわいそうです。で、この自粛要請のポイントが、ビジュアル的にめちゃくちゃ映えることです。どういうことかと言いますと、酒を提供している店から酒が消えたり、営業そのものを自粛させたりすることって、「感染対策をやっている感」がめっちゃ伝わりますよね。つまりひねくれた視点で考えると、酒の提供や営業そのものを自粛することが感染対策になるかは二の次で、やっている感を出すためにやっていたとも言えるのです。
はい、こんな感じでですね、目に見えるものに敏感になりすぎると、物事の本質が大事にされない社会が築かれてしまうんですね。本来であれば、見た目とかはどうでもよくて、真に感染対策になることが実施されるべきです。そして、その感染対策によって困る人がどれだけいるのかも、しっかり配慮しなければいけません。そういった目に見えない物事に想いを馳せる力が、現代人から失われているのかもしれませんね。以上の話を踏まえてですね、やっぱり僕は本を読むことってホントに重要だと感じました。本を読んでいろんな人の考えに触れて、その考えを自分なりに考察してみることは、「過剰可視化社会」とも言える現代に必須の時間なのかなと思います。
ABEMAでの受け答えを考察
実は與那覇さん、この本の出版をキッカケとして、ABEMAニュースに出演されています。もちろんてーまは、過剰可視化社会の弊害です。ABEMAニュースの中では特に、知られることの怖さについて触れていました。なんでもかんでもオープンにすることで、情報を得るための質問が当たり前になる。そうすると、本当は聞いてほしくないような質問も当たり前にしてくる空気感が作られてしまう。そんな世の中って何か嫌だよね。という主張をよなはさんはしていたんですけど、結構ボロクソに言われていましたね。
具体的に宇佐美さんは、何が問題なのか分からない。僕はSNSで自分の事を周知できたおかげで今がある。そうおっしゃっていました。こういう言葉もあって、よなはさんの主張が馬鹿馬鹿しいものに感じる空気感だったんですけど、平石さんの一言がよなはさんを救ったかなと思います。具体的には、「ここにいる人間は、自分たちの情報を可視化しまくっている人たちです。情報の可視化から恩恵を受けている人ばかりがここにいます。だから、可視化によって辛い思いをした人の気持を代弁できないと思っています」と言ったのです。
この一言、僕はホントに大事な視点だと感じましたね。よなはさんの主張って、テレビでコメンテーターを務めているような人たちの声を代弁したものじゃないんですよ。もっと弱い立場の人、声を上げるすら恐れるような人の気持ちを代弁しているわけです。だから、コメンテーターによなはさんの主張は刺さらないかなと思うのと同時に、想いを馳せる事の重要さを改めてつうかんしました。もしこの場に平石さんがいなければ、よなはさんの主張はただの偏見で終わっていたと思います。平石さん、グッジョブです。
さいごに
はい、今回の解説は以上となります。
なお、今回解説したのは本書の一部分であり、まだまだ紹介できていない部分はたくさんあります。興味を持った方はぜひ本書をお手に取って読んでみてください。
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ありがとございました。またお会いしましょう。